今回は那覇基地のイベントで「目玉」の一つは第302飛行隊の記念塗装機F-4EJ改だろう。 この飛行隊も以前
(1985年11月から2009年3月まで)那覇基地にいたことから、最後の雄姿を披露する意味もあったと思われる。
(1985年11月から2009年3月まで)那覇基地にいたことから、最後の雄姿を披露する意味もあったと思われる。
金曜日の到着時、何とも変化の激しい天気の日だったが、奇跡的に太陽光が当たったのは嬉しい。築城基地を
経由して飛来したそうで、この時の前席操縦者は飛行隊長だった。
機体左側に幻に終わった三沢を含めた「FINAL TOUR」訪問地名があるが、もうこれ以上は増えることはない。
機体の前は常にクルーがいたので、終始サインやらで大変だったと思うが、こうした「触れ合い」は嬉しいことだ。
正直なところ那覇に302飛行隊がいた頃、撮った回数は極めて少なかった。 沖縄に行く回数が少なかった上に
どうしても嘉手納を優先させていたこともある。 ただ一回だけ、もう時効だと思うが、どうしても撮りたい機体が
あって、広報班ではなく飛行隊と直接交渉したことがある。 その時は今の言葉で言うと「神対応」なのだろうか
一番若手のパイロットがエスコートしてくれ、飛行前ブリーフィングから飛行後のデブリーフィングまでも見た。
もちろん肝心の機体も近くで撮らせてもらい、今となっては古き良き時代の記録として残っている。
経由して飛来したそうで、この時の前席操縦者は飛行隊長だった。
機体左側に幻に終わった三沢を含めた「FINAL TOUR」訪問地名があるが、もうこれ以上は増えることはない。
機体の前は常にクルーがいたので、終始サインやらで大変だったと思うが、こうした「触れ合い」は嬉しいことだ。
正直なところ那覇に302飛行隊がいた頃、撮った回数は極めて少なかった。 沖縄に行く回数が少なかった上に
どうしても嘉手納を優先させていたこともある。 ただ一回だけ、もう時効だと思うが、どうしても撮りたい機体が
あって、広報班ではなく飛行隊と直接交渉したことがある。 その時は今の言葉で言うと「神対応」なのだろうか
一番若手のパイロットがエスコートしてくれ、飛行前ブリーフィングから飛行後のデブリーフィングまでも見た。
もちろん肝心の機体も近くで撮らせてもらい、今となっては古き良き時代の記録として残っている。